KILLING MY LOVE
夜の峠は静かだった。
けれども吹く風に予感めいた微かな熱を感じるのは、季節のせいだけではないのかもしれない。
今は誰もいない道端も、明日になれはギャラリーで賑わう。
「なんか、変な気分…」
ピット代わりの駐車場で、思わず呟いた拓海を顧みる者はいない。
メカニック達はハチロクの下に潜って黙々と作業している。
型は古いが何よりも自分に馴染んだクルマと、こんな風に秋名以外の峠を走るなんて想像もしなかった。
ただ無機質に配達の日課を繰り返していた一年前が遠く感じる。
そう、思えば本当に遠くまで来てしまった気がする。
配達といういつもの日常の前に、突然あの人達が現れてから。
ひとりで走り続けていた拓海の世界は一変した。
気が付いたら追いかける事に夢中だった。
(…けいすけ、さん、)
今でさえ視線は無意識に鮮やかなイエローを追いかけている。
照明の下でいっそう目立つ黄色いFDは、ハチロクから少し離れた場所に止まった。
降りてきたドライバーもクルマに負けないくらいに目立つ。
初めて拓海の前に現れた時と同じ鮮やかさで、今も彼はそこに立っていた。
走りに関してだけでない感情で彼を意識するようになったのはいつからだったのだろう。
――オレ、啓介さんが好きなんです。
彼に向かってそう言った時に、ようやく自分が彼に向けていた感情の正体を知った。
、追いかけているうちにその存在そのものに惹かれてしまっていたのだと。
啓介は愛機の傍らで兄と何か話している。
兄弟といっても、二人共に今はプロジェクトのリーダーとドライバーの顔をしている。
(涼介さんってそーゆー所はしっかり区別しているよな…)
この冷静沈着なリーダーが、プロジェクトの遠征中に兄としての顔を見せるのは本当に稀だ。
少なくとも拓海は一度しか知らない。前に遠征先で啓介が倒れた時だ。
「…あ、」
向こうで啓介が笑った瞬間、思わず拓海は声を出していた。
その声は誰にも聞こえなかったはずなのに、何故か次の瞬間に啓介と視線が合う。
絡んだ視線はすぐにまた外れた。
啓介はまた真剣な顔で兄と二言三言交わすと機材搬入車の方へと歩いていった。
拓海はただ呆然と眺める。
本当に一瞬だけ垣間見えてしまった啓介の顔は、『弟』としてだけではなかったような気がする。
ハチロクの作業はもう少しかかりそうだった。
思い切って拓海は歩き出す。
啓介は機材を積んだワゴンの中でクーラーボックスを開けていた。
「水、ありませんか?」
拓海が声をかけると、啓介は振り向いて冷えたペットボトルを差し出す。
「ほれ、水。」
「…ありがとうございます。」
ペットボトルを受け取ると、拓海はワゴン車に寄りかかって蓋を開けた。
一口飲めば冷たい水が体に沁み込んでいくようだった。
啓介も隣でペットボトルを開けている。
「けいすけさんって、」
思わず拓海は呟くように言った。
「啓介さんって、涼介さんと仲がいいんですね。」
「…なんだよ急に。」
意外そうな顔をされたのが何となく嫌だった。
「オレは兄弟いないけど…学校なんかで兄弟いた人は、みんな啓介さんほど仲良くなかったなと思って。」
「仲が良くちゃいけないのかよ。」
「そういうわけじゃないけど、ちょっと気になっただけです。」
「別にオレとアニキだってそんなに言われるほど仲がいいわけじゃないぞ?」
「…とてもそうは見えないんですけど。」
「ま、アニキがアレだからな…」
そう言って啓介はFDの傍でメカニックと何か話している兄に目をやる。
嬉しそうに、けれどもどこか少し寂しそうに。
「好きなんですね、涼介さんのこと。」
思わず言ってから拓海は後悔したが、遅かった。
「あぁ、自慢のアニキだからな。」
そう言う啓介は切なくなるほど嬉しそうな表情をしていて。
(変なこと言うんじゃなかった…)
拓海は苦い気持ちを誤魔化すようにペットボトルの水を一気に流し込んだ。
――告白は決着をつけてから言うんだな。
前に返された言葉を思い出す。
結局自分なんて、彼の前ではそんなものでしかなかったのだ。
――オレは、アニキの夢のために走りたい。
もっと前にはそんな事も言っていた。
朝陽の中で不敵な笑みを浮かべて前を見る啓介が、あの時の拓海には眩しかった。
走る事と、涼介という存在。
啓介にとってはそれ以上のものはないのだろう。
最初から拓海の入る隙間なんてなかったのだと、今更のように思い知らされる。
「啓介さんは、オレの事どう思ってるんですか?」
俯いたまま、拓海は低く問いかける。
隙間などどこにもなくても、拓海は啓介を追っている。
走る事だけでかろうじて繋がっている関係でしかないのなら。
「そんなの、決まってんだろ。」
啓介は一瞬だけキョトンとした顔をすると、すぐに不敵に笑って答える。
「お前は倒すべき敵で、今はDのダブルエース、だろ?」
ポン、と肩をひとつ叩かれる。
「そう言うおまえはどうなんだよ。」
改めて訊かれれば、拓海の中に浮かんだ答えは自分でも驚くほど単純だった。
「同じチームのドライバーで、絶対に負けたくない人。」
Dのダウンヒラーとして、それだけは絶対に変わらない気持ち。
「それと…走ることの楽しさを教えてくれた人。」
初めて秋名でバトルした時から変わらない気持ち。
啓介に対してどんな感情を抱いていても、全てはここから始まっていた。
(あぁ…つまり、どうしようもないって事か。)
最初から、今もこれからも、走る事だけが二人を繋ぐ唯一にして絶対の絆になる。
例え啓介の心の中に拓海の入る隙間がなくても。
お互いにそういうものだと認識している限り、その絆は変わらない。
「啓介さん!作業終わりました!」
「藤原ー!もう1本行くぞー!」
それぞれのメカニックから声がかかる。ドライバーの休憩時間も終わりだ。
「OK、じゃあもうひとっ走りするか。」
ペットボトルの水を飲み干すと、啓介は大きく伸びをした。
「オレも行かなきゃ…」
拓海はワゴン車の中のゴミ袋に空になったペットボトルを入れる。
「…藤原、」
呼ばれて振り向けば、ポコ、と空のボトルで頭を小突かれた。
「オレがおまえを倒すまで、絶対に負けるなよ。」
真っ直ぐに拓海の目を見て啓介は言った。
今の啓介にとっては、それが最高の応援のつもりなのだろう。
「…負ける気はありませんよ。啓介さんにも…他の人にも。」
啓介の手から空のボトルを奪うと、拓海も目を見つめ返して応える。
「…やっぱおまえ、ムカつく奴だな。」
台詞の割にはどこか嬉しそうに笑うと、啓介はボトルを取られた手でもう一度拓海を突付いた。
「わかんねー人…」
そのまま去っていく啓介を見送りながら拓海は呟いた。
啓介から取り上げたペットボトルもゴミ袋に入れると、ひとつ伸びをしてから歩き出す。
向かう先では作業の終わったハチロクが拓海を待っている。
低いエンジン音が近付く。見慣れたツートンカラーに実家の屋号のステッカー。
少し離れた所からは、すっかり聞き覚えてしまったロータリーサウンドが唸りを上げている。
『おまえは走る事だけ考えてればいい』
何故かそう言われたような気がした。
それならば自分も、今はただ走る事だけを考えよう。
愛機のコックピットでステアリングを握る。
軽くアクセルを踏めばエンジンは鋭く吹け上がる。
先に出て行ったFDを追いかけるように、拓海は静かにハチロクを発進させた。
届かない想いも変わらない気持ちも、全て胸の奥に閉じ込めて。