紫陽花




 真夜中の執務室には、ペンの走る音と紙の擦れる音だけが小さく響いていた。
「――大佐、」
 不意に聞こえた声にロイは手を止めた。
「また残業ですか。」
「…見ての通りだ。」
 顔を上げれば何時の間に入ってきたのか、部下が呆れたような顔でこちらを覗き込んでいる。いつもはどこか間の抜けた顔で飄々としているくせに、何故か今は少し怒っている表情にも見えた。
「部屋に入る時はノックくらいしたらどうだね、ハボック少尉?」
「ちゃんとしましたよ。三回も。大佐が気付かなかったんでしょう?」
 そう言ってジャン・ハボック少尉は無造作に短く切られた金髪をくしゃくしゃと掻いた。
 彼も最近ロイと共に中央に異動となった部下達の一人だ。ロイもそれなりに信頼も置いている。肝が据わってるのか単なる無神経か、上官の前でもあくまでマイペースを崩さないこの男は、それでも部下には慕われていた。
「この書類は昨日俺が出したやつですよ?期限は来週の金曜日。あんたらしくもない。」
「中央に来て早々から、他の連中にサボリ癖があると思われるのは嫌なのでね。」
 コツコツと靴音を立てて窓際まで行くと、ハボックは溜息をひとつ吐いた。
「だから残業までしてこんな書類にまで手を付けてる訳ですか。」
「まぁそういう事だ。ここでは何をいつどこで上に知られるか分かったもんじゃない。」
「……言い訳ですね。」
 カタン、と小さな音を立ててペンが机に転がった。
「中央に来てから無茶苦茶ばかりやってますよ?」
「それはいつもの事じゃなかったのか?」
「ここ最近は余計に酷くなってますよ。」
 ロイの背中がふわりと抱き締められる。
「大佐、少し痩せてきましたね。」
 どうせメシもろくに食ってないんでしょう?と呆れたような声が耳元で聞こえた。
「で、睡眠もちゃんと取れてないですね。お肌荒れてますよ。」
「……そう言って頬擦りするのは止めろ。いい加減に手を離せ。暑苦しい。」
 心底嫌そうに身を捩らせながら、ロイは抱き付かれた腕を引き剥がしにかかる。
「酷いなぁ、俺と大佐の仲じゃないですか。」
「そういう誤解を招くような言い方も止めろ。」
 ――誰かを思い出しそうになる。
 思わず言いかけた言葉を飲み込んで、ロイはきつく唇を噛んだ。
 いつだって片時も忘れた事はない。当たり前のように自分の隅々まで染み付いてる存在だった。
 それを今更のように思い知らさせるのが堪らなく嫌だった。
 別に忘れようとしている訳じゃない。忘れられる筈もない。
 ただ、自分ひとりの胸の内にしまっておけばいい感情を、他人の手で引き摺り出されたくないだけだ。
「だったら、もっと自分を大事にしてくださいよ。」
 ――お前、もっと自分を大事にしろよ。
 言われた言葉にロイは苦い表情を浮かべた。
 普段はどうでもいい事ばかり言うくせに、こんな時に限ってどちらも似た事を言う。
「いつものあんたなら俺の腕くらい簡単に振り解けるでしょう?」
 ぐい、と緩みかけていたハボックの腕がまたきつくなる。
「疲れてるんですよ、大佐。少しくらい息抜きしたって今なら中尉も怒りませんよ?」
 言って耳の後ろを軽く舐められる。ざわ、と形容し難い感覚が一瞬ロイの背筋を走った。
「いい加減にしろ、ハボック。疲れたら息抜きでも休憩でも自主的に取っている。」
「そんなつれない事言わないでくださいよ。」
 さわさわとハボックの手が軍服の下に潜り込んでいく。振り解いて、この失礼な部下を殴り飛ばしてやりたい気分だったが、ロイの身体は思うように動いてはくれなかった。
 やはり自分は疲れているのだろうか。この男の言う通りに。
「だいたい、俺を恋人にしてくれるって言ったじゃないですか。」
 そういえば先日そんな内容のやりとりがあったな、とロイはぼんやり思い出す。
 確かに彼は、彼女ができたばかりだと言っていた。ロイと一緒に中央へ異動となったばかりに、ハボックは結局その恋人と別れる羽目になってしまったのだ。
 というより、別れろと言ったのは他ならぬ自分だ。
 一応責任は感じていたから見合いも勧めたが、これも振られてしまったらしい。
 余程ショックだったのだろう。一週間も欠勤して寝込んだ挙句、裏路地で酔い潰れているのをロイが見つけたのは割と最近の話だ。
『一生付いて行きますから、俺を大佐の恋人にしてください。』
 あまりの落ち込み様に思わず「私が奢ってやるから」と行って入った居酒屋で。
 泥酔状態でロイに抱き付きながら、本気とも冗談ともつかない表情でハボックは言った。
『分かった分かった。だから私に抱き付くな!』
 ロイはそんな事を言って返したような気がする。
「…酒の席で言った冗談を真に受けるのかお前は。」
「まぁ中央に来たおかげで彼女に振られた訳ですから。それくらいの慰めはあってもいいかと。」
 どのみち俺が大佐に付いてく事に変わりはないし。
 しゃあしゃあと言ってのけながら、ハボックの手はさっさと上着のボタンを外していく。
「私を失恋の慰めにするな。と言うより先刻から何をやっているんだお前はっ。」
「見た通りでしょう。折角だから恋人らしいことのひとつもしたいじゃないですか。」
「男の恋人などいらん!」
「酷いなぁ、俺は結構本気なんですけど。」
 ぎゅ、と服の下を這っていた腕がまた抱き締めてくる。
「だってそうでしょう?いくら上官命令だって、彼女を捨ててまで嫌いな奴に付いて行ったりしませんよ俺は。」
 つまりはそれだけ好きなのだと、言外にハボックは言っているのだ。
「あんたって結構放っておけない人ですからねぇ。」
 ――放っとけないんだよ、お前は。
「…………っ、」
 ロイは返す言葉も思いつかないまま顔を伏せた。
 思い出してしまう。比べてしまう。似ても似つかない別人だと判り切っているのに。
「ああもう、そんな湿っぽい顔しないでくださいよ大佐。」
 くしゃ、とハボックの手がロイの前髪を撫でる。
「俺みたいな下っ端じゃ大して力にはなれませんけど、その分危ない橋を渡る気もないからうっかり消される心配もないし、人使いの荒い上司でも一生付いて行きたいなんて、殊勝な事を本気で考えてくれる部下って結構お買い得だと思いますよ?」
 無意識か、それともこちらを見透かしているのか。
 どちらにしてもこれは冗談で言っている事ではないのはロイにも分かった。
(馬鹿ばっかりだ。どつもこいつも。)
 付いて行ってもおそらく良い事などひとつもないだろうに、それを承知で自分の後に付くと言う。
 呆れるほど馬鹿で、どうしようもないほど愛しい人達。
「まぁ、お前がそこまで言うなら、今夜くらいは付き合ってやってもいいか。」
 苦笑混じりにロイは後ろを振り向いた。驚いたように見開かれたアイスブルーの瞳がすぐ側で瞬いている。
 もう誰かを失いたくはない。
 そんな祈りにも似た想いを抱きながら、ロイはそっとハボックに口付けた。








 キシ、と仮眠室のベッドが鳴った。
 先程まで散々抱いていた身体を、ハボックは静かにその上に乗せる。
 随分と手酷くやってしまったかもしれない。
 身体に負担をかけたり、傷付けたりするような行為はしていないが、ギリギリまで追い詰めるような抱き方をしたから、疲労の溜まっていた身体には少し堪えたかもしれない。
 そこまでやったくらいが丁度いいのだという状態に、ハボックはいたたまれない気持ちになる。
「――大佐、」
 呼んでも目を覚ます気配がないほど、見事にロイは熟睡していた。
 無理矢理気絶させた、という方が正しいかもしれない。
 手近にあった毛布を引き寄せて、丸まって眠るロイの上にかけてやる。ついでに枕も置いてやる。もそ、とロイは小さく身じろぐと、毛布と枕の端を掴んで抱きかかえ、また寝息も立てずに動かなくなった。
 多分久し振りなのだと思う。彼がこんなに眠るのは。
 いっそ幼くすら見える寝顔を見守りながら、ハボックはそっと額にかかる髪を払ってやる。
 あれから眠れない夜ばかり過ごしてきたのだろうか。
 自分の知らない所で、この人は想像もつかない悲しみや痛みを抱えて立っている。
 それでも前に進もうとする彼を、支える事など自分にはできはしないだろうけど。
「たまにはちゃんと休んでくださいよ?」
 せめて束の間の、静かで穏やかな時間を守るくらいは。

「――おやすみなさい、大佐。」

 眠るロイの白い頬に、ハボックは小さくキスを落とした。








「……ねぇ、どうしてなんですか。」
 誰にともなくハボックは問い掛けた。
「こんなに貴方を必要としている人がいるのに、こんなに手間のかかる人を置いて、どうして……」
 しかし答える者はここにはいない。
「うちの大佐を泣かさないでくださいよ。あんたがあの人を辛い目に合わせてどうするんですか。」
 壁に凭れながら、ハボックはどこか遠くを見上げる。
「ねぇ、どうして一人で逝っちゃったんですか。」
 誰もいない廊下に、呟きだけが落ちていく。

「答えてくださいよ、中佐……」

 問い掛けは薄暗い闇の中に消えていったが、答えは返ってこないままだった。





ハボロイです。じゅうはちきんにはならなかった……orz つーかえっちシーンは切られました。時間の都合で(爆)

(2004年06月27日)

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