島唄




 久しぶりに訪れた熊本は、どこか懐かしい風の匂いがした。
 あれから何年経っただろう。
(海にでも、行ってみようかな……)
 あの頃はキャンプや休暇どころではなかったし。
 そんな事を考えながら、速水は熊本市内を歩いていた。
 両腕には小さな包みを抱えて。
 かつて学兵としての日々を送っていたプレハブ校舎は、空襲で間借りしていた女子校ごと焼けてしまっていた。今では熊本撤退戦と呼ばれているあの戦闘から、数年後の事だった。
 熊本(ここ)にはもう、何も残っていない。
 大切だったものは全て失われてしまった。想い出の場所さえ跡形も無い。
 それでも速水は熊本へ戻ることを決めた。
 徴兵で初めてこの地に来てから、既に三十年以上の月日が経っていた。
 我ながら良く生き延びたものだと思う。
 いや、必死で戦ってようやくここまで来た、という方が正しいかもしれない。
 死ぬわけにはいかなかった。
 本当は自分の生死などどうでも良かったのに。それでも戦わなければならなかった。どうしても生きなければならない理由があった。
 さわ、と風が吹く。
 歩く速水のすぐ横を、自転車が通り過ぎていく。
 小柄な少年が立ち乗りでペダルを漕いでいた。
「――滝川?」
 思わず振り向いて声を上げる。そんな筈はないと分かっていても。
 自転車に乗った少年の姿はもうなかった。
(そういえばあいつ、遅刻しそうになると自転車で来てたよな……)
 味のれんの裏にこっそり自転車置いて、教室まで息を切らしながら全力疾走していたっけ。
 かつてのクラスメイトを思い出す。今でも一番大切な親友のことを。
「帰って来たよ……君の故郷に」
 抱えた包みを見ながら小さく呟く。
 目を閉じる。
 今でもあの悲鳴が聞こえる。死にたくない、という彼の叫びが。
 自分は……何もできなかった。守ってやることさえも。ただ、後方で祈るしかできなかった。
 桜も散り始めていた、あの日。
 速水は静まり返った戦場に横たわる滝川を見つけた。
「……ばかやろー…遅いんだよ……」
 抱きかかえると、彼は薄く目を開けて呟いた。
「しっかりしろ、すぐ助けが来るから……」
 涙が出そうだった。
「なんだよ……そんな顔、するなよ」
 滝川は、笑った。
 何か話そうとして咳き込む。口から大量の血が溢れた。
「……あのさ、」
 それ以上喋るな、と首を横に振る速水を無視して言葉を続ける。
「俺、さ…あんたのこと…好きだったんだ……。知ってた?」
「…………」
 言葉が出なかった。
 ずっと、ずっと好きだったんだ……と言って彼はまた笑う。
「いきなり、そんなこと言うなよ……」
 思わず彼の身体を抱き締める。
 こんな時になって、自分の気持ちに気付いてしまうのが堪らなかった。
 訓練生時代から一番の親友だった、誰よりも大切な大切な人。
(僕も、君が好きだ)
 とうとう涙がこぼれた。
 滝川は速水の腕の中で微笑んだ。
「あこがれてたんだよなぁ……」
 信じられないほど穏やかで幸せそうな笑顔だった。
 最後の最後に言えて良かった、とでも言うような。
「…あんたみたいになりたいよ……あんたみたいに………」
 そのまま彼は目を瞑って、動かなくなった。
「――滝川?」
 返事はなかった。
「…………」
 涙はもう、出なかった。
 まだ体温の残る唇に、そっと自分の唇を重ね合わせる。さっきまでの涙が嘘のように、自分でも嫌気が差すほど冷静になっていた。
 血と埃で汚れた髪を、一度だけ、やさしく払ってやってから立ち上がる。
 ふわり、と息絶えた身体から、何かが漂っているように見えた。
 小さな青い光。
 速水が手を伸ばしてみると、それはふわふわとこちらに寄ってきた。そのまま両手で包むようにして胸元まで引き寄せてみる。
 何故か彼が側にいるような気がした。
 ――それから。
 滝川を失った後も戦争は続いた。同じ教室にいた仲間が何人か、また次々と消えていった。
 不思議と速水は生き残った。敵の真中にあっても、何故か被弾もしなかった。一番大切な人を失って、もう生きる意味もないと思っているのに。
 ひょっとしたら、滝川の魂が守ってくれていたのかもしれない。
『そりゃ悲しいだろうけどさ、』
 ふと滝川の声が聞こえる。
『死んだ奴らの分まで、俺たちでがんばろうぜ』
 生きていた時に彼が言っていた言葉。
 戦死者が出て、小隊中が暗い雰囲気に陥りがちだった時、彼のこの言葉と笑顔がどれほど救いだったか。思い出して、そして決意する。
(――君の分まで、僕は生きるよ)
 いつ戦争が終わるか分からないけど、生きて、戦って生き残って、いつか平和な時代を迎えてみせるよ。そうしたら、一緒に帰ろう。君が生まれ育った、熊本の地へ。
 滝川の形見にと、葬式の時に渡された《傷ついた獅子章》。戦死者のみに与えられるというそれを受け取った時に、自分も一度死んだのだ。今は自分の中で滝川が生きている。
 彼の分まで、生きよう。彼の分まで笑って、彼の分まで戦おう。
 ――それだけを思って生き抜いて、今ここにいる。
 長い長い年月を経て、人類はようやく平和を取り戻した。昔決意した通りに、熊本へと帰ってきた。
 速水の腕の中には、滝川の遺骨が眠っている。
 最初は熊本の墓に入っていたのだが、熊本撤退時に関東へと移され、今また速水の手によって熊本に戻ってきている。彼の家族も関東の大規模な防衛戦で全滅してしまっているから、せめて骨だけでも故郷に帰してやりたかった。
(……その前に、)
 彼と一緒に出かけてみたかった。昔まともに遊びに行く事もできなかった分、折角だから海を見に行く位はしてみたかった。
「海と……新市街の方にも行ってみようか?」
 空を見上げる。
 眩しくなるほど鮮やかな青空。
「――ねぇ、僕は強くなれたかな。
 あのころ君の目に映っていた僕のように」
 片手を伸ばして呟く。青みがかった髪がさらさらと揺れた。
 風が吹く。
 一九九九年五月十日、熊本撤退戦。
 あの時もひとりで風に吹かれて歩いていた。友軍部隊と合流して山口を目指す道程の間、ずっと無言で歩き続けていた。部隊編成時に戦車兵として配属された四人のうち、結局生き残ったのは速水だけだった。滝川も含めた他の三人は戦死、整備班からも何人か戦死者が出ていた。
 憧れられるほど、強くもカッコ良くもなかった。
 仲間も、大切な人も、守ることができなかった。ただ自分が生き残るだけで精一杯だった。
 ……それでも。
 必死で戦って、生き抜いて、長い年月を過ごしてきて、それで少しは強くなれただろうか。
「本当はね、」
 空を見上げたまま言葉を続ける。
「僕も、君のことが好きだったんだよ。
 …気付かなかったかな?
 でも…本当は、ずっとずっと好きだったんだ……」
 あの時伝えられなかった言葉。
「今でも、好きなんだよ?」
 三十年以上経った今でも、一番大切な人。
(やっぱり、変わってないな僕は……)
 ふとそう思う。思わず苦笑いを浮かべる。
 これからどうしようか。
 海に行って、思い出の場所をとりあえず訪ねて。
 まずは滝川をゆっくり眠らせてやろう。彼の生まれ育った、熊本の地に。
 そうしたら、自分も熊本で暮らそう。いつでも滝川に会いに行けるように。
 ずっと側にいよう。毎日でも会いに行こう。
 それから……歌を。
 自分達に許された唯一の自由を。
 伝えられなかった想いを風に乗せて、ただ一つの歌を歌い続けよう。

「大好きだよ……愛してる」

 時を越えて、死すらも越えて。
 どこかの誰かの未来のために。

 ――たった一つの想いを込めて。





【ループ1】



 不意に耳障りなサイレンの音が響く。
『201v1、201v1、全兵員は現時点をもって作業を放棄……』
 続いて繰り返されるアナウンスを待たずに、速水は駆け出していた。
 ――今の自分は戦場に赴く事さえできないと分かってはいるけど。
 この間の戦闘で大破した機体には予備も無く、修理は未だに終わっていなかった。
 他の仲間の出撃準備を手伝いながら、ひたすら何かに祈り続ける。
(どうか、生きて戻って来ますように)
 補給車と戦車を乗せたトレーラーが戦場に向かう。
『じゃあ、行って来るから』
 親友の声が聞こえた。
「……がんばって」
 そんな事しか言えない。涙を堪えて、精一杯の笑顔を見せて。
 ――学校で待機しなければならない自分が歯痒かった。


 もしも、あの時……。
 自分が一緒に出撃できていれば。


 今頃みんな戦っているのだろうなと思いながら、整備テントで自分の機体の修理を続ける。
 早く出撃できるようになりたい。
 何もできないというのは、耐え難い苦痛でしかなかった。どんなに絶望的な戦況でも、自分には敵を倒すために戦う事しかできないから。
(我らは、そう、戦うために生まれてきた)
 なんて象徴的な歌だろうと、この時ばかりは恨めしくさえ思う。
 現実は正にその通りだった。
 戦場は死と隣り合わせの場所だが、そこで戦わなければ、自分は生きていけない。
 敵と戦うためだけに生み出された子供達。
 唯一許される自由は、戦場でひとつの歌を歌うことだけ。
 戦場の友を思う。
(……どうか、生きて戻って来ますように)
 言葉にする事もできない、切実な願いを抱いて。


 死にたくない、という悲鳴が聞こえた気がした。


 不意に広がる胸騒ぎに、ふと速水は作業の手を止める。
 出撃していった仲間達はどうなっただろう。そろそろ戦闘が終わってもいい時間だ。
 見計らったように左手の多目的結晶がアラームを鳴らす。集合の合図だ。
『……これから捜索を開始する』
 司令の言葉と一緒にリストが送られてくる。
『生存者は可能な限り救出、絶望的と思われる者は…』
 話は途中から耳に入らなくなった。
 戦闘結果の報告と、戦死・行方不明者のリストに目を通す。
 何度も何度も確認した。しかし、見間違いなどではなかった。
 大敗の二文字よりも絶望的な報告。
 ――滝川陽平、戦死。
(嘘だ…)
 捜索開始の声とともに、速水は戦場の跡へと駆け出していた。
 最後の反応が途絶えたという地点に向かって。
「滝川?」
 あいつが死ぬなんて嘘だ。だって、今朝だって一緒に教室まで行ったし、昼食だって食べたじゃないか。ほんの数時間前までだって、隣で笑ってたじゃないか。
 子犬のように嬉しそうな笑顔が浮かんだ。
 それなのに、なんで。
「――滝川っ!」
 きっとまだ生きてる。今すぐ行くから、だから……
「何処にいるんだよ…返事くらいしろよ……」
 叫び続けて嗄れた声で、それでも名前を呼ぶ。
「滝川……」
 涙が出そうになる。
 ふと通信機に小さなノイズが入る。ザザッ、という微かな音に、思わず顔を上げる。
 一瞬の沈黙。
 もう一度周囲を見回す。もしかしたら、という願いを込めて。
 再びノイズが入る。今度は消えそうな程小さな声と一緒に。
『……はや…み……?』
「滝川っ!」
 迷わずに走り出していた。良かった。生きてたんだ。
 ――でも。
 目の前に広がっていたのは、白い血の海。
 そこに横たわっていたものは。


 絶望的な現実に、速水はどうする事もできなかった。






果てしない時間のループ
繰り返される世界

何度も
何度も

それは可能性を探すための選択
幾千万の物語



現在でも過去でもない
未来という名の希望を目指して





初めて書いた話がこれってどうなのって感じですが、初見で滝川くんと運命の友でHな雰囲気になってたら戦況悪化→機体故障→出撃できない間に滝川戦死→泣きながらキス、というベタな展開がショックすぎたので仕方ないと思います。
あのデータが残ってたら…今の自分ならあの時の彼を死なせたりなんかしないのに…
後で最初からやり直して一緒に生還もSランククリアもしたけど、それはもう違う世界の、違う彼の出来事。おかげで沼に落ちましたとさ。

(2002年08月08日)

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